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試合当日

朝は普段以上に真っ青な顔をしていた竜也だったが、朝食を終えるといつもの感じに戻って来ている
試合開始は午後1時。球場入りは11時すぎと聞いているので、まだ少し時間がある状態

浩臣は試合前のルーティーンで一人屋上で物思いに耽っていると思われる中、竜也は部屋で一人手持ち無沙汰
美緒や未悠は球場に向かっているわずと送ってきたきり応答がなく、とはいえ通話をかけるのも憚れたのでどうしようかという状態
光や渚もそれは同様であった
祐里も多分いろいろ忙しいんだろうと察して連絡できずにいて、何となくベッドでゴロゴロしながらスマホを見ているだけ

あ、そうだ。昨日送られてきた“チャンテ”の動画でも見るかな
そう思った矢先、部屋のドアをノックする音

ほいほい開いてるよと思いつつ、竜也は徐に起き上がるとドアを開ける
そこに立っていたのは、ジャージが決まっている祐里の姿

よっという感じで祐里は部屋の中を見渡しているので、「伊藤くんならいつものアレでいないぞ」と竜也が呟く
何だ、伊藤くんに用があったのかとすっとぼけると、祐里はちょっと入っていいかな? と探りを入れて来る

「別にいいけど散らかってるぞ?」
着替えこそ散らばってはいないが、男二人の部屋。とても綺麗とは言えないわけで
それでもいいならどうぞと促すと、祐里はお邪魔しまーすと中へ

“密会”となるのを竜也は配慮して、わざとドアを閉めないようにしていたが祐里は入る時にそれを閉めている

「別に問題ないでしょ、私とあんたが今更何をするって話でさ」
確かにと竜也は即座に納得してそれに同意する
何か起きるなら、とっくにそれは起きていたはず。それだけの時間も猶予もあったのに、ここまで何もないならはいそれまでよということ

「どう、緊張してる?」
祐里はそう訊きつつ竜也の目をしっかりと見つめて来る
とにかく人の目を見るのが苦手な竜也は、それを自信満々に逸らしているのに祐里の視線は追撃してくる
当然のようにそれもまたさけてスマホに視線を送りつつ、竜也は小さく首を振った

「夜中から朝にかけてはやばかったけどな。今は別に。7時間は寝たから万全よ」
気が高ぶって寝られなくなることを懸念していたが、色々疲れているのが本音。普通に早寝を敢行していた
それを聞いた祐里は、ああねと頷いて笑みをこぼしている

「やるじゃん。私なんて全然寝れなくてさ。色々考えすぎて頭おかしくなりそうだったよ」
帯同している女子は一人なので、当然のように一人部屋。伊藤くんが居なきゃ電話してたと思うんだけどと言った後、けどあんた寝てたなら、かけられなくてよかったよと続けて

ただ雑談をしたくなっただけか、と竜也は感じてこれは渡りの船と思った
一人でいるのは大概好きなほうだけれども、いざ決戦の間際。余計な雑念が湧きまくるより、心知れた祐里と話しているほうが絶対にプラスになるだろうと

「そいや美緒も松村ももう球場に向かってるってさ。俺らより早く着いてどうするんだって話だよな」
竜也がそう言って笑うと、祐里はあははと笑って同意を示す

「さっき光から電話あったさ。“竜ちゃんに負けたら許さないからね”って言っておいてって」
直接言えばいいのにと思いつつ、また“俺に言うなー”と言ってブロックされるのがオチだわと思っている

試合前数時間というのに、いつも通りリラックスした空間を作ってくれる祐里には何を言って感謝すればいいかわからないレベル
いくらオフモードになっているとはいえ、さすがにこれからのことを考えるとあのまま一人でいると気が滅入りかねない

「“忘れ物”、取りに行こうね」
祐里が不意に呼びかけるので、竜也は、ん?という表情

「忘れ物。あの日、竜が掴むはずだった...ううん、西陵野球部が掴むはずだった甲子園への切符。今日、それを勝ち取らないと!」

1年の夏。あと1勝まで来ての大敗、そしてイップスからの低迷。そしてプログラム...
何て濃厚な高校生活でしょう
あと一つ足りないもの...それが

祐里との約束。甲子園へ連れて行く

「2人で甲子園行くとすると、ざっと10万はかかるんだよな。やっぱり勝たなあかんわ」
竜也がぼそっと呟くと、祐里はまたあははと笑う

「ホント、あんた小さいよ。台無しじゃん」

その後もしばし談笑していると、部屋に浩臣が戻って来る
ヘッドホンをしたまま集中モードな浩臣は、祐里が部屋にいるのを見ても驚いた様子はなくオウという感じで軽く右手を上げると、何事もないように自分のベッドに腰かけている

それで祐里が、じゃあ戻ろうかなという感じで立ち上がると、浩臣はスマホに視線を向けたまま「俺に気にしないでいいぞ。まだ時間あるだろうしゆっくりしてればいい」と気を利かせてくれている

更に浩臣が、「移動のバス。竜の隣進藤に譲るわ。俺もうちょい集中高めときたいから」と続けて静かに物思いに耽始めている

「何か私邪魔にならない? 大丈夫?」
祐里は一旦腰を下ろしたものの、ちょっと不安そうな様子
じゃあ1回廊下出る? という感じで竜也が促したので、2人はそっと立ち上がる

廊下で立ち話もアレなので、ロビーまで降りて2人並んで腰かけている
珍しく竜也が気を利かせて、何か飲む? と言うと祐里がすかさず麦のジュースと言いかけたのでさすがにそれを制している

「あのな、出場辞退になるだろ」
和屋の応援歌をあんなのにしておいて、祐里の軽口を真顔で止めるところが竜也らしさ全開といったところ
とりあえずコーヒーを渡してご機嫌を伺いつつ、自分はコーラを飲んでご満悦

「ったく、またコーラか。試合中飲まないだけまだいいけどさ」
祐里がそう窘めるが、本人はまるで気にしていない様子

「って、ブラックなんて飲めるかー」
祐里は一口飲んで、苦っと悲鳴を上げている
あれ、お前ブラック飲めなかったっけと竜也が素で返すと、祐里の表情は一変して不機嫌なそれに変わった

「どこの彼女と間違えてるんだか。って、お....前?」
なぜか肩をいからせてお怒りモードになる祐里だったが、竜也から砂糖とミルクを手渡され機嫌を直した様子

その後もしばし歓談しつつ、それぞれ飲み終えると“解散”の時間になっている

「着替えないとだしね。そろそろ戻るよ」
祐里は立ち上がると、また竜也の目をしっかりと見つめた
「とにかく、悔いがないようにね。私は竜を信じてるから」

確かにな、と竜也は思って素直に頷いた。勝ち負け以前に、悔いが残る試合にだけはしたくない
そりゃ負けたら終わりだし、野球も終わりなんだけどさ。それはそれ、これはこれ

「勝った負けた。そんな小さなことで俺は野球やってませんよ。俺が野球をやってるのは...」
言って、竜也はいつもの見開きポーズで逆に祐里をしっかりと見つめ返す


その答えは、もちろん...